しくじりおやじと学び〜人生を少しでもよりよく生きるために〜

40代のしくじり中年男が伝えたい、人生との向き合い方、学びの大切さ

私はあなたのことを何も知らない

こんにちは。

しくじりおやじです。

 

ちょっと投稿まで間が空いてしまいました。

書きたいことがとりあえずなくなったことや、

忙しくなってしまったので、放置してしまいました。

でも、それはいいことなのかもしれません。

ある意味で健康になった証とも言えます。

 

ところで、久しぶりに書きたいことが出てきました。

他者との付き合いと距離感についてです。

 

上記のテーマについて、この1,2ヶ月で

ちょっと勉強させられることが多くありました。

 

旧友と話していて、お互いの今後について話していたところ、

福祉の仕事をしているその友人は、今後看護師を目指すべく、

看護学校に通おうかどうか迷っていると言いました。

もしそうするのなら、もう40を過ぎているのに大幅な路線変更となります。

 

私はそれ自体は否定のしようがありませんが、

人間というのはちょっと会わない間にずいぶんと

変化するものだと思いました。

それまでの彼に対するイメージといえば、

きちんと仕事をしつつも、酒を飲む以外にこれといった楽しみもない、

その日暮らし的な男だと思い込んでいたのですから(未婚)。

 

ところが、結構大きな人生の決断をしようとしているんです。

そういえば、それまでは飲みの誘いには大抵顔を出す

付き合いのいい男でしたが、なんだか最近は付き合いが

悪くなったように感じていまして、生き方を変えようと

しているのかもしれないと思ったわけです。

 

そうなりますと、彼頼みだった私の酒飲みも、

付き合う相手を変えざるをえなくなります。

いや、酒飲み以前に、何かあればすぐに彼に連絡をしていた

私自身の交友関係を考えざるをえなくなりました。

 

人は会わないうちに色々と変わっていくものです。

そうなると、付き合いが減るか、または付き合いがなくなるかもしれません。

それは確かに私にとっては寂しいことなのですが、

相手にとっては同時に喜ばしいことでもあります。

なぜなら、相手は自身の人生をより良きものに変化させていくために、

時間の使い方を変えようとしているのですから。

 

それは、本来は祝福すべきことなのです。

私が利己のためにそれでもしつこく誘ったとしたら、

彼は嫌になって私と会ってくれなくなるかもしれません。

それは最悪の結果です。

 

そうであれば、私も付き合う相手を変えるべきなのです。

会う頻度を減らして、たまに会えればいいかな程度の

相手とみなすべきなのです。

 

大人になると、それぞれ忙しくなって、

なかなか昔のようにはいかなくなります。

それでも無理して関係を続けようとすれば、

おそらく疲弊や破綻をきたすでしょう。

 

人間、ダメな時はダメなんです。

それをわきまえて適度な距離感で行動すべきです。

その方が結果的に長続きします。

 

終わらせたい関係ならともかく、

無闇に人と縁を切るものではありません。

たとえその時は嫌で仕方がないとしても、

時間が経つと懐かしく感じたりするものです。

 

でも、連絡を取りたくても終り方が良くなければ、

会うことはおろか、連絡を取ることも難しいかもしれません。

 

私は、これまで結構な人と縁を切ってきました。

こちらから切ったり、向こうから切ったりなど、ケースバイケースです。

でも、どちらかといえば私から切ってきた方が多いと思います。

今思えば、結構とんでもないことをやらかしてきたと思います。

ですが、その当時はそれでいいと信じて疑いませんでしたし、

また、関係の悪化を回避したり、修復する仕方も知らなかったのです。

 

ひとえに私の未熟さがもたらした災いでしょう。

でもそれは、今だから言えることでして、

失敗を糧に、それだけ成長したということでもあります。

人生とはほろ苦いものです。

 

過去は戻ってきません。

そうであれば、現在と未来を大切にして生きていくしかないでしょう。

過去と同じ過ちを繰り返さないために、

一人一人との関係を大事にしながら生きていく必要があるのです。

 

現在は大した関係ではないかもしれませんが、

関係というものは、どこでどうなるかわかりません。

だからこそ、無闇に縁を切ってはいけないんです。

 

ただし、お金にまつわるトラブルについては別でしょう。

「金の切れ目は縁の切れ目」

これは真実です。

 

人間関係は、時として見極めも大事です。

 

それでは、また。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表現することと向き合う覚悟

こんにちは。

しくじりおやじです。

 

今日は川崎市市民ミュージアムに、映像作家の

松本俊夫さんの作品展を観に行きましたが、

とてもよかったです。

 

私は芸術なるものや表現と向き合う人生を送っていきたいと

思っていますが、今日はそのことに確信を抱くことができました。

 

たとえ人生が思ったようにうまくいかないものであろうとも、

表現すること、決してこれだけは失ってはならない。

これを失えば、私はやはり私でなくなる。

それは別の誰かの人生を生き続けることにもなるだろう、と。

 

心の声がそう言いました。

 

今後も表現と向き合っていくために、

頑張って生きようと思います。

 

そして、世界の諸相や諸断面を自分なりに

表現していきたいと思います。

 

それではまた。

 

 

 

 

クレージージャーニーの旅人たち

こんにちは。

しくじりおやじです。

 

さっき、テレビで「クレージージャーニー」を観ました。

今回は爬虫類ハンターと女性写真家を取り上げていましたが、

面白かったです。

 

私は自然が好きで、写真を撮りもしますが、

テレビモニターの向こうには、まるで違う自然と写真観がありました。

 

クレージーというだけあって、常人には真似のできない

世界と被写体があるわけですが、すごいなあと思う一方で、

全く憧れはありませんでした。

 

もっと若ければ、ちょっとは憧れる部分もあったのかもしれませんが、

40を過ぎて過激なことや冒険に対する感覚が麻痺してきた現在、

楽しむだけで精一杯なのでした。

 

世の中には少ないながらも到底真似のできない

生き方をしている人たちがいます。

それは探求者、求道者と言えるのかもしれません。

人生を賭けて行っていることかもしれません。

 

だから探求者、求道者のエネルギーたるや凄まじいものがあります。

 

ただ、こういう人たちは目覚めも早く、すでに幼少期には

探求者としての原型を見つけていたりします。

それを、その後何十年と持続していけるだけのエネルギーを持っています。

 

通常の人間ならば、年代ごとに興味あることが違ったりします。

そして、その都度新しい物事に挑戦しては飽きてしまったり、

挫折しては投げ出してしまいます。

 

あるテーマについて、人生を賭けるだけの価値があるものなど

そうそう見つかるものではありません。

また、見つかったとしても、人生のサイクルの中で

手放してしまうことも十分にありえます。

日常生活を優先すると、大切なものを見失う可能性があります。

 

ところが、人生を賭ける人は誰に言われようと止めません。

そして、それを継続していると、いつしか周囲も認めてくれるように

なるかもしれません。

その人の本気が伝わるのかもしれません。

 

エネルギーというのは、それだけの力があります。

 

でも、残念ながらそんな力は滅多な人にはありません。

 

日々をなんとなく過ごすことで、1日1日が過ぎていきます。

 

そしてどんどん年を取っていきます。

 

日々の些細なことに頭を悩まし、人間関係に気持ちを擦り減らし、

お金や将来の不安が頭をよぎります。

 

ある時、私の人生はこれでいいのだろうか?と、

ふと気になり始め、やり直したくてももはや後戻りできない

現実に苛まれます。

そして、現実を受け入れるのか、それともまだ抗うのか……

 

これが大方の現実でしょう。

 

大した夢も希望もありませんが、

でも、それは悪いことなのでしょうか?

 

私は人生に良いも悪いもないと思います。

 

そこには、己の意識と感覚が司る世界があるのみです。

それをコントロールできずして、

良いも悪いもないのだと思っています。

 

なすがままの状態で、その人の人生に良いも悪いもないのです。

 

それではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表現に身を置くことの価値

こんにちは。

しくじりおやじです。

 

今日は久しぶりに演劇を観に行きました。

内容は現在と過去が交錯するストーリーのため、

ちょっと難しく感じましたが、見応えはありました。

 

内容もさることながら、久しぶりに舞台を

鑑賞できたことが嬉しかったです。

 

今日の舞台は以前から知り合いの女優さんが

出演するのでお誘いしてくれましたが、

表現の世界に身を置く人というのは

とても魅力があるなあと改めて思いました。

 

かくいう私も高校時代から音楽をやったり、

大学時代には映画を作ったりと、表現に身を置いてきました。

まあ今も多少はやってますが、以前と比べると

活動量も情熱もずいぶんと低下しています。

 

低下の理由を歳のせいだとか、仕事のせいだとか

言いたくはありませんが、それもまた事実です。

 

30歳を前に実力のなさを感じ、それからは

趣味でバンドをやったりするぐらいとなりましたから

言えることでもありますが、

表現に身を置き続けるのはなかなか容易ではありません。

 

個人の領域でやり続けることはもちろんですが、

お客さんを集めて、お金を払って見てもらう。

そういう世界に身を置き続けるというのは、

表現以外の何かを犠牲にすることにもつながります。

 

それはもしかすると仕事かもしれませんし、

収入かもしれませんし、

妻子や親兄弟との関係かもしれませんし、

ひょっとすると人生そのものかもしれません。

 

みんながみんなそうした心づもりで活動している

わけではないでしょうけど、

でも、継続しているとそういう局面に迫られることは

十分に起こりえます。

 

歳を重ねると人生には色々なことが起こります。

失業、転勤、結婚、離婚、出産、育児、病気、事故、

家族や友人知人の不幸などなど。

 

そうした重大な出来事はその人の人生観を根本から

変える可能性をはらんでいますし、

だからこそ、表現というエネルギーを伴う作業からは

距離を置くことにもなりかねません。

いわば普通の生活を望みやすくもなります。

 

それでもなお表現を希求することは、

己のためであり、誰かのためでもあります。

 

私にとってそれは、敬意を表するに値することです。

 

表現することは、

金のためでもなく、生活のためでもなく、

己のためであり、誰かのためでもあります。

 

そうした生き方、無駄な生き方でしょうか?

ダメな生き方でしょうか?

もったいない生き方でしょうか?

 

金を稼げない人間に価値がないというのは、

ある一面から見た価値観にすぎません。

確かに稼得能力は大切なことですが、

人によっては稼得能力を投げ捨てて

己の信じる価値観を実践する人たちがいます。

 

それを生き様というのかもしれませんが、

ある人たちにとっては、稼得能力以上に

価値をもたらせてくれるかもしれません。

 

それではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人と良き関係を保つことの困難

こんにちは。

しくじりおやじです。

 

最近、些細ながら気にかかる人間関係の悩みがあります。

しかも複数です。

一つは職場で、もう一つは趣味でやっているバンドでです。

悩みの種は相手とウマが合わないといいますか、

やりづらいんですね。

 

ところで、人間関係を難しく感じるのはどんな時でしょうか。

私の場合は、差別や区別されている感じを受けたりする時に、

難しく感じます。

例えば、相手が自分にだけ話しかけてこないとかですかね。

 

こちらとしては普通に接しているつもりでも、

相手が何か気まずさや抵抗を感じて遠慮がちになったり冷たくなったり、

逆にこちらが気まずさを感じて遠慮がちになったり、

冷たくなったりすることもあります。

 

こうしたことは人から見れば実に些細なことですが、

本人にしてみると結構大きな問題と化してしまうこともあります。

その悩みに対して解決の糸口が見つからないと、

長引いたり、こじらせてしまいます。

そして、ストレスを募らせて具合が悪くなったり、

仕事や所属する集団を辞めてしまう原因にもなりかねません。

 

個人に宿る感情や気持ちの問題というのは、

法律やルールが介入することのできない世界です。

本人が心から納得しない限り、決してスッキリとはしません。

頭で仕方がないと思ったとしても、心が納得してくれないと

やっぱりダメなんですね。

 

人と良き関係を保つためには、

人と仲良くなりすぎない、依存しすぎないことも大切だと思います。

人と仲が良いほど、ふとしたことでかえってこじれやすくもなります。

そして、収拾がつかなくなり、修復が難しくなります。

 

一回思い切ってケンカすればいいなどと言う人もいますが、

私はそうは思いません。

ケンカしたりすると、おそらくますます悪化してしまうでしょう。

なぜなら、感情がますますこじれるからです。

それをスッキリとさせる手段を持っていなければ、

大人のケンカは、ただただお互いの関係を殺してしまうでしょう。

 

だから、大人はめったにケンカもしませんし、

なるべく我慢をします。

それがいいとわかっているからです。

 

でもそうすると、気持ちがスッキリしないという

悪循環が待っています。

だからこそ人との付き合いは難しいです。

 

どうして子供の頃は普通にできていたことが、

大人になるとできなくなったり、

難しく感じてしまったりするんでしょうね。

 

それではまた。

 

 

ボンクラの生きる道は凸凹だらけ

こんにちは。

しくじりおやじです。

 

ここ数日、次の仕事のことで頭がいっぱいになってきています。

 

次に何をやろうかがはっきりと定まっておらず、

どういう働き方がいいのかも定まっておらず、

わからないことだらけです。

 

思えばこれまで歩んできたキャリアも一貫性にかけています。

おおざっぱには、映像業界→ゲーム業界→出版業界→NEXT?

 

私は仕事に対して非常に飽きっぽく、

職種はおろか業種も転々としています。

そして、次がまだ定まりません。

 

これは、道を決める前に、そもそも仕事に

就けるのかという不安が強いからかもしれません。

 

その不安がいろいろな感情を呼び起こし、

着地点を不明瞭にしているような印象です。

 

先日、職場の先輩からこう言われました。

 

「君の強みは何なの?」

 

残念ながら、答えられませんでした。

これが私の弱点です。

 

これまでの中途半端な生き方が、

明確な答えを出しあぐねてしまうんです。

 

自分に自信がないんでしょうね。

 

物事を決断するためには、

まずはそことの戦いになるんでしょうね。

 

それではまた。

 

若者は何に絶望しているのか?

こんにちは。

しくじりおやじです。

 

時代の空気でしょうか、どうにも若者に元気がないようなことを

よく言われていますね。

 

雇用不安、少子化の煽り、教育の変化、IT社会、いじめの変化、

スマホSNSは当たり前、漠然とした将来への不安

 

勝手に若者にまつわりそうなキーワードを書き出しましたが、

思うのは、これまでにもあった事象と、

現代ならではの事象が混在している印象を受けます。

 

こうしたある種時代の渦に巻き込まれた若者が、

私の頃よりも距離を置いてしまっているなあと思いますのは、

文化との関わりだと思っています。

カルチャーのことです。

 

若いうちに文化の強烈な側面に刺激されて、

絶大なる影響を受けると、その人の人生観は

良くも悪くも一変します。

 

私にとっては映画や音楽が人生観を変えた2大文化となりますが、

いまだに絶大な存在として君臨し続けています。

映画と音楽がある限り、世の中がどれだけつまらないものであろうが、

私はこの世を楽しむことができます。

 

つまり、生きる希望ともいえます。

 

仮に絶望の末に、自死を遂げた場合、

もう映画にも音楽にも触れることができなくなってしまいます。

それは忍びないんです。

 

生きている以上は、何かにすがることも必要です。

しかも、すがる対象は必ずしも人である必要はありません。

人は時として裏切ったり、腹立たしかったり、

失望させられたりすることもしばしです。

 

ですが、文化はあなたを裏切ることはないでしょう。

いつでも私たちを、大手を広げて待っていてくれます。

そして、ささやかな日常を潤わせてくれます。

 

絶望から救い出してくれる存在、

それを見つけた者は、

精神の根っこに強さを備えられるように思えてなりません。

 

それではまた。